目隠し



 夜気が混じりはじめた風に思わず肩を竦める。
 
― 夏か・・

 熊野はヒノエ君や敦盛くん、それに弁慶さんの生まれ故郷だ。
 黙っていてもじわりと汗が滲んでくる昼間と違い、夜風は意外なほど冷たい。
 せせらぎが聞こえてくる程、小川が近いせいだろうか。
 窓からは、燃えるような紅の空の中、一番星が光るのが見えた。
 
 ここ数日野宿が続いていたので、皆は何処かに出掛けてしまったみたいだ。
 熊野に着いてから一時の宿を借りた邸の人も居ないのか、静かな中に小さく虫の鳴き声だけが響いてくる。
 
― 空の星が数えられないくらいになった刻に、ね

 すれ違い様、ヒノエ君が耳許で言った言葉が蘇る。
 こちらが恥ずかしくなるような台詞を真顔で言うのに少しだけ慣れたけど、あんな事を言われたのは初めてだった。
― まさかね
 一瞬本気かと錯覚するくらい、声は何処か真剣味を帯びていた。
 成り行きで、舞のことを知られてしまったのがいけなかったんだ。


 虫の鳴き声がますます大きくなり、煩いくらいだった。
 縁側を降りると、丁寧に整えられ花が所狭しと植えられている庭があった。
 いつの間にか夕陽も西にその姿を隠し、紫紺の空に星の瞬きが増えていた。

… 本当に、来たら

 ヒノエ君の声が脳裏に蘇って、つい辺りを見回してしまった。
 相変わらず人の気配は無く、さわさわと風に葉が騒いでいるだけ。
  庭の垣根は丁度私の目の高さくらいで、あそこを乗り越えてくるとも思えない。
 本当にからかわれたのかもしれないと、変に意識していた自分が馬鹿みたいだ。

 部屋に戻り、脚を投げ出して座った。
 治りきらないうちにいつの間にか出来ていた膝頭の擦り傷がやけに目立つ。
 スカートのポケットを探ると、何も無い。
「……あれ?」
 落とした…?


「これは?」
 つい数日前に弁慶さんから手渡されたもの。
 掌に乗るくらい小さな円形の黒い漆塗りの箱だった。
「傷薬ですよ」
「薬…? これくらい平気、ですから、これは…その」
「望美さん」
 見上げると、苦笑いしてるに違いないという私の予想は見事に裏切られた。
 ほんの少し、表情が翳ったのは気のせいだろうか。
 でもそれも直ぐに陰を顰め、曖昧な笑みを口元に刻んで弁慶さんは私を観ていた。 
「どんな小さな傷も命取りになることが有るんですよ?」
「…そうですよね、解りました」
「今日はやけに素直なんですね」
「……」
「すみません、それはちゃんと使って下さい」
 私は大きく息を吸い込んで、敢えて返事をせずに肯くだけだった。
 弁慶さんに口では敵わないことくらい知ってるけど、このまま諦めるのも性に合わない。 
 だけど上手く言葉が繋げなかった。



「ない…」
 無くなった、と言って謝れば済むのかもしれない。
 だけど弁慶さんから貰ったものを無くしてしまったと言うことに、小さな罪悪感が涌いてくる。
 あの中に入っていた薬は、弁慶さんが作ったもの。

 薄暗くなってきた部屋の畳の上を、燈炉も点けずに手探りしてみる。
 部屋の中でも見当たらない、庭に降りて一通り探したけど見つからない。 
 やはり何処かで落としたんだ。
「…どうしよう」
 素直に謝るしかないと、私が意を決して立ち上がりかけた時。


 障子の向こうに、気配を感じた。
 足音や物音がした訳でもないのに、この世界に来て以来、妙に感覚が研ぎ澄まされているみたいだ。
 気配はやがて近くなり、陰が映ってもいないのに其処に居るとわかる。
 私は息を潜め、部屋の隅に立てかけてある白龍の剣を確かめた。
 奇妙な緊張感が背筋を走り、掌が熱くなる。
 一度、深呼吸をして ― 腕を伸ばし様、移動しようとすると。
「…約束通り、迎えにきたぜ」
「……っ!」
 声がしたと同時に、障子の外に淡い影が映り込んだ。
 私は咄嗟に返事できず、そろそろと後退りしていく。

 くっ、と笑う声がして、影がゆらりと動いた。
 襖に手を掛けて、躯が通るくらい開く。
「聞いてる? …姫君」

 ヒノエ君と言う人は神出鬼没だ。
 その事をすっかり失念していた私は、薄暗い廊下に躯半分を移しながら陰の動きを追っていた。
 滑るように廊下に出て、裏庭へと続く方角へと向かう。
 所々蝋燭の火が灯されてるとはいえ、足許はおろか行く先も薄闇が降りていて先が見えない。
 だけどそんな事に構わず、私は一層闇が濃い方へと小走りになった。


「…もう、来ないよね」
 回廊の曲がり角に隠れて、今来た方を覗いてみる。
 足音も呼ぶ声もなく、途端に緊張が緩んだ。
 暫くは部屋に戻れない。
 渡り廊下の向こうには、月灯りに照らされた納屋がぼんやりと見えた。
 冷静になって考えてみると、何もそんなに逃げ回る必要も無いのに。
「何してるんだろ……」
 そう言えば、自分の太刀も部屋に置いたままだ。



「望美さん、どうしたんですか、こんな処で」
「…っ!」
 あまりにも近くでした声に、私は飛び上がるほど驚いてしまった。
「散歩、ですけど」
「散歩?」
 言ったきり、弁慶さんは黙り込んだ。
 そろそろと振り返る。
 雲が切れて、白く冴えた月の灯りが回廊の窓から射し込んできた。
 弁慶さんは私の視線に気付くと、薄く口元を綻ばせた。


 この人には、陽の光よりも月の光が似合う。
 眩しくて温かい陽の光とは正反対の、冷たくて近寄り難い硝子のような月。

「随分と急ぎ足な散歩ですね」
「え?」
「それよりも」
 弁慶さんは、鬱陶しげに被っている外套を後に払いのけた。
 そんな些細な仕種まで目についてしまうなんて、今日の私はどうかしている。
「…… 」
「散歩なら付き合いますよ」
「えっ」
 そう言い様、私の視界は閉ざされていた。


 正確には、腕を引かれすぐ近くの空いている部屋の中に押し込められていた。
 蹌踉めいた私は、一瞬何が起きたのか理解できずにいて。
「弁慶さん?」
「黙って」
 声を潜めた弁慶さんは全く以て冷静そのものなのに、私の鼓動だけが速まっていく。
 身動ぎできない程強い腕が、私の動きを封じている。
「あのっ」
「もう少しですよ」
「それってどういう…」


 細く開いている襖から、月の白い灯に形取られた影がほんの僅か見え隠れした。
 ヒノエ君かもしれない。
 息を殺すようにして、弁慶さんの肩越しに覗き観ると影はいつの間にか消えていた。
 しん、と静まりかえった部屋の中で安堵の溜息を漏らす。

「……弁慶さん」
 私も声を潜め、そっと顔を上げる。
 それと同時に緩んだ弁慶さんの腕から離れようとして、するりと背中に回された手に遮られた。
 息遣いまで伝わりそうな距離になり、私の背中が硬いものに行き当たる。
 部屋の隅にまで追いやられた形になったと気付いた時、ふわりと頬を擽るのは弁慶さんの柔らかな髪、そして。
「は、なして下さいっ」
 くすりと笑ったと解るのは、弁慶さんの肩の震えと耳許ちかくで感じる吐息。
「どうして、…」
 どんどん熱を持つ頬がどうにもならなくて、悔し紛れに言ってみる。
 抗っても逃れられず、心の何処かで矛盾した感情を持て余している私。

 弁慶さんは、解らない。

「…                」
「えっ?」
 潜めた声よりもっと小さい、それは私の知ってる弁慶さんとは違っていた。

   

 拘束する腕は、僅かだけれど優しい束縛に変わっていた。
 深い吐息と共に、髪に指が絡んで解ける。
 耳の周りを柔らかな唇でなぞられ、耳朶を噛まれると、ぴりと走る痛みに堪らなくなる。
「もう、少しこうしていてくれますね」
「……」
 返す言葉が見つからない。
 いつでも私の反応なんか解りきってる癖に、わざと問いかけてくる。


「あの、弁慶さん」
 話を逸らしてしまうのは、それ以上流されるのに耐えられそうにないから。
「何ですか?」
「薬、が」
「ああ、それがどうかしましたか?」
「…無くしてしまったみたいなんです。探したんですけど、どうしても見当たらなくて。
ごめんなさい。私は良いですから、薬は他の人にあげて下さい。私は、ほら…白龍もいるし、平気です」

 私より、弁慶さんの薬を待っている人は大勢いる。
 例え一人の僅かな量でも、人を救うために作られた薬を無駄にする訳にはいかない。
「望美さん」
「私の居た世界では、薬は簡単に手に入って誰もがそれを当たり前だと思っています。…だけど…
此処は違う。あれは弁慶さんが人を救うために作ったものです、だから」
 解放され、見上げると其処には困惑か、苦笑かどちらとも取れる表情の弁慶さんがいた。
 だけど、優しい淡い色の瞳が私を映す。
「君の言うとおりです。ですが、神子は龍の加護を受けた存在とは言え、その身に受けた傷までは
治すことは出来ないのでしょう?僕は…」
 爪先立って先を促すように目線を捉えてみたけど、あっさりと掴まったのは私の方。


 その先を言うのを躊躇った弁慶さんの姿が、見えなくなった。
 黒は夜闇でなく、弁慶さんの外套。
 先を急くように背中から降りた手が、私の腰を引き寄せる。
 目隠しされたと感じたのは、瞼に降りてきた唇のせいだった。




「さっき、言ったこと…」
「ああ…」
 弁慶さんは、散々私の唇を奪った癖にまだ足りないように下唇をするりと舐めてきた。
 軽く噛むように重なり、すぐに突き放して、躯が軋むほど抱き締めてくる。
 次第に力が抜けていく躯を受け止めてくれる腕に縋るしか術がなくなって。
 髪を避けて、うなじに口付けられると鋭い痛みに声を上げそうになった。
 乱れた呼吸を戻すのに精一杯で、唇を結んでみるけど上手くいかない。

「言った通りの意味ですよ?」
 弁慶さんは、私のうなじに指先を這わせる。熱を持ち始めた肌に、冷たい感触が走った。

「ちゃんと… 聞こえるように、言ってください」


「僕が嫌なんです。それでは駄目ですか?」


 低く掠れた声にそぐわない言葉が、余計に神経を昂ぶらせる。
 子供みたいな我が侭を言い、平然としているのに口惜しさが募った。
 もっと追い詰めてみたいけれど、質問に質問を返しても無駄なだけ。
 私は悔し紛れにそれ以上キス出来ないよう、わざと胸に顔を埋めた。


 目隠しされたままでいるのは、今だけなのだから。




 ― 無くしたと思っていた薬が袖の中にあると気付いたのは、翌朝のことだ。
「弁慶さんだ…」
 何処かで薬を拾っていたのだろうか。
 それとも、全く同じものを私の知らない間に袖に忍ばせたのか。

 無性に可笑しくなり、声をたてて笑った。
「嫌、か…」
 あんな言葉は二度と弁慶さんの口から聞けないかもしれない。



「弁慶さん」
「何か?」
「今日は ―」
 振り向いた穏和そのものの顔には、昨夜の我が侭の名残は微塵も無い。
 陽射しが強く、真上に行きかけた太陽を見上げた。
「涼しいところ… そうだ、弁慶さんの好きな処って何処ですか?」

 弁慶さんは小さく笑い、右手が私に向かって伸びてくる。


「いいんですか?九郎に文句を言われるのは堪りませんからね」
 否応無しに手を取られる。
 弁慶さんの指先はいつもひんやりしているのに、今は心なしか熱かった。

「私は構いません」
「いい覚悟ですね」
「弁慶さんこそ」
 


 顔を見合わせると、これから秘密の悪戯でも始める気分になる。
 だけど弁慶さんが余裕綽々なのが、なんとなく不公平だ。




 私ばかりが嬉しいのは、対等じゃない。



 熊野の夏は、まだ終わりそうにない。




― 甘修業 「目隠し」


 Special thanks…! illustration by  聖音さま

 藤名 翠