沈まぬ太陽などない。
 一言呟いた低い声に微笑うだけで応え、盃の酒を飲み干したのは、そう遠い過去のことではない。





 月 影





 鼻孔をつく錆付いた臭い、時折聞こえてくる怒声、馬の嘶きが次第に闇に呑まれていくようだ。
 煌々と灯される松明が風にゆれ、生温い空気を何処からか運んでくる。
 すでに伝令も途絶え、密やかな畏怖が彼の周囲を取り巻いていた。







「恐れながら。… ここに残るは我等だけかと存じます。今ならば或いは」
 膝を付き見上げてくる男の顔を一瞥することなく、一軍の将である彼はゆるりと立ちあがった。
 その拍子に、() いた太刀の帯執に施された控えめな銀の装飾が小さく鳴った。
「血路は開かれぬ、か」
 口許に笑みを刻みながら、最後まで忠節を尽くそうとする部下の目線を受け止める。

「……重衡様!」
 思わず名を口にして、男はざわりと総毛立った。
 柔らかくすがめられた紫水晶の瞳、端正な顔立ちにそぐわぬ、抗うことを許さない無言の制圧。
 目線だけで人を制する生来の才知と度量は、かつての重衡の父親を彷彿とさせた。
 勇猛、冷酷非情な将と名高い知盛とはあきらかに違うが、彼もまた希代の傑物、清盛の血筋の者なのだ。
「ひとつ、頼まれてはくれないか」
「……」
 いつもは打てば響くように返ってくる忠臣の返事は無かったが、重衡は構わずそのまま続けた。
 重衡の言葉を無言で聞いていた男は、深く(こうべ) を垂れている。
 一刻の猶予もならない。今、決断しなければ ― しかし。
 逡巡の末、男は深く息を吸いながら恭しく両手を差し出した。
「…この命に代えましても、必ずや」
 しゃらり、と銀の細工が音をたてる。
「すまない」
「では」
 主の愛刀を抱え踵を返した男は、二度と主の方を振り返ることはなかった。
 何故、あの男に託そうと思ったのか。
 自分より幾つか年上の、生真面目で、重衡がまだ物心つかないうちから仕えていた男。
 あの男ならば、武士としての忠義を貫くだろう。
 たとえそうでなくとも、このまま捕虜になればあれは源氏の手に渡ることになるのだ。
 
 
 戦場で常に携えていた刀。
 元服の折りに父から授かった頃の事が蘇りかけて、横から切り込んでくる叫びに我に返った。
「…お逃げください!」

 重衡は迫り来る源氏の勝ち鬨にうすく笑み、夜空に冴え冴えと浮かぶ白銀の月を仰ぎ見た。

 鬱蒼とした森は、夜闇に沈むと余計に現世と切り離された場所のようだ。
 郎党はみな散り散りとなり、自分の意志で逃亡した者、最後まで付き従おうとした者には決して付いて来ぬよう命じた。
 重衡の初陣から側にあった者はごく僅かしか残っていなかったが、誰ひとりとして彼の命に背く者はなかった。
 ― 何と美しい月か
 同じ月の彩を、随分と前に観た気がした。
 満ちて次の日にほんの僅かに欠けた月は、星の瞬きひとつない漆黒の空に眩しいほどの光を放っている。
 月は、人を狂わせる。
 このような夜に命尽きるのもまた運命かと、重衡はふいに足を止めた。




「私、あちらの方を観てきても良い?」
「何かあるのか?」





 九郎を総大将とする源氏の軍は、三草山での平家との攻防を経て、ヒノエの無謀とも言える提案により、
福原の雪見御所に攻め入った。
 破天荒な攻めは逆に慎重になっていた平家の意表を突き、また還内府はじめ知盛ら平家の将たちが不在の中、
辛くも勝利を得た。
 清盛、幼少の天皇、そして三種の神器は既に御所には無かったが、勝利であることには変わりない。
 神子である望美はさすがに生身の人間を斬ることはなかったが、本格的な戦場を目の前にしていたせいで
途端に張りつめていた気が緩んだ。
 鞘に収めた剣がやけに重く感じられ、気怠さの増した膝を引きずるようにして当て所もなく歩く。

― 人を斬ってはいない けれど
 怨霊は、かつては血の通った人間だった。
 しかし自分が斬らねば ― 封印、浄化しなくては、彷徨える魂が浮かばれることはない。
 途端に膝が震え、その場に屈み込みそうになる。

 月明かりで十分だったが、風の流れが変わったせいで月がその姿を半分隠していた。
 真夜中に何度か目が覚めるのはこの世界に来てよりほぼ毎日だったが、それが闇のせいだとは
望美も自覚していなかった。
 ほんの僅かに闇が落ちただけでも、不安が押し寄せてくる。
 何度も息を深く吸い、皆の元に戻ろうと踵を返した。
 その時、後の茂みから小さな葉擦れの音がした。
「……!」
 反射的に柄に手をやり、いつでも抜くことができるように右足を一歩ひいて構える。
 不思議と次第に落ち着いていった。
 多勢ならば敵わないかもしれない、しかし相手が一人ならば。
 どうにか切り抜けることだけに思考を巡らせ、闇が濃いほうの茂みを凝視した。