鬱蒼とした森を分け入り、どのくらい歩いたのだろう。
戦場が近い証ともいえる錆の臭いが風に運ばれ、すぐに掻き消されていく。
やがて疲労も感じなくなった頃、闇の中にぼんやりと浮かぶ細身の姿が目に入った。
長い髪が靡き、夜空を見上げる横顔が月灯りのもとに露わになる。
― 女 ?
戦場からそう遠くないこのような場所に、一人で佇む女。
物の怪か、それとも ― 自問自答している時に、雲が流れ月がもとの姿を現していく。
ゆっくりとこちらに向けられた瞳が、訝しげに細められる。
記憶に残るその名を呼ぼうとして、先に足が動いていた。
「誰?」
女の声は、低く警戒心に満ちて投げつけられる。
細腕で刀剣を振るうのか、柄を握りしめるその姿は、神の時代の戦乙女のようにも思えた。
一歩、二歩と近づいていくにつれ、こちらを凝視していた瞳が驚きに見開かれるのがわかる。
「貴女は… 私の知る方でしょうか」
よもや刀も持たない身で、今にも斬りかかってきそうな者に対峙する術はない。
重衡もそうだが、兄たちもおそらく女の細腕と見くびることは無いのだろう。
ただ身を護ろうとするのと、多少なりとも剣を修めた者の身のこなしが違うのは、一目瞭然だ。
先の戦で戦場を駆け抜けた、勇猛果敢な女武者もいる。
龍神の加護を受けた神子と呼ばれる女は、剣を振るい怨霊を斬ると風の噂で耳にしたことがあった。
しかし今、目の前にいる女がそうであるのか否かは、今の重衡にとっては何の意味もなかった。
「…あなた、は」
女の口から零れる声は、先程と打って変わってあまりにも心許なかった。
六波羅の邸第での宴の夜、忽然と姿を現した女。
十六夜の月が見せた幻かも知れぬ、しかし女の声も姿もなにより哀しげに揺らいでいた瞳から零れた涙が、
重衡の脳裏に焼き付いて消えなかった。
「重衡さん…?」
涼やかな声で呼ばれた名は、たしかに自分のもの。
「ああ、やはり貴女は月が見せた幻ではなかったのですね。…十六夜の君」
「あなたはどうして、ここに…」
女は柄を握る手を下ろし、躊躇いがちに近付いてきた。
「さあ。… このような答は貴女を納得させるものではないかもしれませんが。月が今一度、導いてくれたのかもしれません。
…あの夜の逢瀬は、私にとっても忘れられないものでしたから」
どちらからともなく、お互いの顔が見て取れるくらいまで近付いた。
真っ直ぐに見上げてくる細面の顔は、冴え冴えとした月に照らされていた。
「何処に、行くんですか」
珊瑚の唇から紡がれる言葉は、あまりにも現実的だった。
重衡は淡く微笑う。儚げで酷く美しく、どこか仮面のような虚ろな顔で。
「貴女には隠し事も無駄のようです。今の私は何一つ持たぬ身。いずれ果てる命ならば、貴女に斬られても良いとさえ思える」
嘘偽りはなかった。
自害して果てるか、或いは捕らえられ何れ処刑される身であれば、一度きりの逢瀬でも心に留めた者の手にかかるのも
悪くはない。
悲愴な想いを胸に秘めて散った一族の者もいる中、生というものに執着しない兄とよく似ていると今更ながら自覚する。
女は息を詰め、必死に何かを堪えているようでもあった。
小さく
頭
を振り、唇を噛みしめる。
荒げた声で答えながらも、必死に次の言葉を探しているようだと知れた。
あまりに素直な反応だったが、女はそのまま顔を逸らしてしまった。
手を伸ばせば、届く距離にいる。
あの夜、ほんの一瞬だけ垣間見えた姿と何ら変わらぬまま、女は確かにそこに居た。
それ以上声を掛けることもせず、重衡は背を向けた。
「待ってください」
「戻る場所が失われた身には、行き着く先は決まっているのですよ」
「………」
「お別れです。… 出来ることなら、あと少しだけ貴女とこうして居たかったのですが」
続けようとして、それは言葉にならなかった。
彼女が観ているのは自分ではないと、とうに気付いていた筈なのに胸のうちに燻り疼くものは一体何なのだろう。
答えを出すことを拒んだまま、重衡はゆっくりとその場を後にする。
「逃げて下さい。今なら誰も来ません」
「それは出来ない」
草を踏みしめる音がし、背に感じる気配とともにゆるく回される細い腕。
「貴女が探しているのは、私ではない」
「いいえ。あなたは間違いない…私が探している人なんです」
「…貴女は、一体誰だ?」
「……」
ふいに緩んだ腕をほどいて、重衡はふたたび女と向き合った。
俯いた白い頬に触れると、絹のようなまろやかさが指先に残る。
「あの十六夜の夜に貴女は言いましたね。… 遠い未来に私と貴女は出逢うのだと」
女は小さく肯く。
「そうであっても… 今はその時ではない。ならば、私は…」
このまま先を行けば平家の残党として捕らえられ、いずれ処刑されるしか道はない。
「重衡さん」
未来に出逢う、けれどもこの夜ではないのだとしたら。
「貴女の言葉に嘘偽りはないのでしょう。… とうに死を覚悟している筈なのに、確かめてみたいとさえ思う。
今、このような時にであるのに」
どのような形であれ生き長らえて、またいつか出逢うのだと。
「私は二度と…」
思い倦ねるように口を噤み、それでも懸命に何かを訴えようとしている。
強い意志を湛えた大きな瞳は、逸らされることなく重衡だけを映していた。
「二度と?」
問いながら、重衡は女の長い紅紫の髪に手を伸ばす。
「あなたを、…」
望美が口にしようとした彼の真実は、声にならずに消えていった。
鼓動が重なるくらいに引き寄せられた時、重衡の芳香に望美は眩暈を覚えた。
唇が触れ合う間際、掠れた声で囁かれる。
細められた紫煙の双眸に宿る、哀しみに満ちた光に囚われていくように思えた。
先の運命で、銀という人は一度も望美の名を呼ぶことはなかった。
この先、重衡が同じ運命を辿っても ― 記憶の中に望美の名の欠片くらいは残るのだろうか。
「私は― 」
交わした口付けは、刻を忘れるくらい甘やかで哀しく、苦しかった。
薄く開いた艶やかな唇に誘われ、重衡は華奢な躯をその腕に抱いた。
何度目かの口付けの後ゆっくりと離れていく重衡を、望美は追うことも出来なかった。
手の甲で切れるかと思うほど乱暴に拭った唇に、痛みが走る。
― 喪いたくない
最後の一言を望美の胸の中に封じたまま、重衡は去った。
とうに涙の乾いた頬を擽る夜風に望美は瞼を閉じ ― 髪に、躯に残る彼の温もりを感じていた。
文・ 翠 絵・ 聖音さん